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なりたい自分に近づくには、やる事よりもまずは止める事

なりたい自分に近づくには、やる事よりもまずは止める事

私のお客様のほとんどが、十年、二十年の長いお付き合いの方が多くみえます。身体が楽になってからでも病気になりにくい心や身体のケアも含めてお付き合いいただいている方が多くみえます。

ですから、身体のケアはもちろん、色々な事も相談してくださいます。その中でも「変わりたくても中々踏み出せない」、そんな話もよく聞きます。

私達は「こうなりたい」「こうしたい」「こんな自分になれたらいいのに」なんて事を、常にではないにしろ、時として考えています。

そしてその方法も、人に言われなくとも、本を読まなくても、高いセミナーに通わなくとも、どこかで既に解っていることも幾つかあります。

例えば、それにはまず自分を変えないといけない。これは解っています。
それには行動を起こさないといけない。これも解っています。
それにはまずは勇気をもってその一歩を踏み出さないといけない。これも解っています。

でも何故かその一歩が踏み出せない、一歩を踏み出して行動を起こせても長続きしない。
自分を変えたいと思う程に邪魔が入って断念してしまう。

何故でしょうか?どうしたら少しはそこに近づくことができるのでしょうか?

前に「結果を求めず少しづつ行動するのが有効では」って話を書きました。でも、意外とそれができない人も多いと思います。

人の行動のほとんどは無意識で行われています。
朝起きてから夜寝るまで、ほとんどが「あれしなくちゃ」「これしなくちゃ」「これやってからじゃないとこれができない」って1日を過ごしてしまいます。また、いちいち考えなくとも、何をしたか解らないうちに1日が過ぎていってしまうことも多くあります。

誰でも毎日やらなければいけない事が、意識していないだけで実は数多く存在しています。顔を洗う、歯を磨く、食事を買ってくる、食事を作る、食事を食べる、食事を食べに行く、着替える、シャワーを浴びる、お風呂に入る、トイレに行く、当たり前のことでも生きるだけでしなければならないことが数多くあります。その数多くのことを無意識で行動しています。

要するに、今のままで何かをしようとしても時間、エネルギー、必要なお金がいっぱいいっぱい、そこに新しい事をする余裕がないからできない。意外とそれが理由だったりします。

ですから行動に移せない理由を「私はダメなやつ」って勝手に自分でレッテル貼ってしまわず、まず何かを止める事から始める事は有効だと思います。するとそこに「空き」が生まれます。空きが生まれたら何かで埋めないと人は落ち着かなくなります。

その空きに「こうなりたい」「こうしたい」に関連する行動で少しづつ埋めていく。

こんな事から試してみてはいかがでしょうか?

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アドラー心理学と御蔭さま

 

人の悩みの多くは対人関係にあると言われています。

対人関係の悩みを増やしてしまうのが承認欲求をベースに人間関係を構築してしまうことです。これだと常に他者に振り回され、自分が本当にしたい事もできす、したいことより他者をベースにした「やらなければならないこと」に押しつぶされ、生き辛くなってしまいます。

また、他者を競争相手と見なし、これをベースに対人関係を捉えてしまっても、他者をライバルと見なしてしまいます。更には敵と見なしていき、これもまた生き辛くなってしまいます。

それに、一時的に勝者であって周りが言う事を聞いてくれていたとしても、いずれはその力も衰えて負ける時がきます。それにも関わらず勝ち負けに執着をおこしてしまえば、更に人生が生き辛くなってしまうことにもなります。

更に生き辛くするものに、「他者と自分の課題を混合させてしまう」という事があります。
他者の課題は他者のもの、自分の課題は自分のものです。自分の課題に対して他者がどのように評価しようとも、それはその人の考え方や捉え方次第であり、自分がどうする事も出来ないものなのです。そこに意識を向けても仕方ありません。気にしないことが大切です。これを気にし過ぎれば、そのうちこれもまた生き辛くなってしまうという事です。

故に、承認欲求と競争意識に意識を向けない、他者と自分の課題を混同させない人間関係を構築していく必要が出てきます。

それにはまず現在描ける理想の自分を想像し、今の自分とのギャップにだけ目を向ける事が必要です。
常に「認めてくれるもの」も自分、「競う合うもの」も自分であり、理想の自分と現在の自分を比較し、無理することなく少しづつそのギャップを埋めていけば良いと思います。

上記に示したことから対人関係の捉え方を出発すれば、最終的にアドラーが言う共同体感覚を呼び起こす事ができるかもしれません。

共同体感覚を呼び起こす。これは長年人類が培ってきたもので、誰でも既に持っているために、身につけるのではなく掘り起こしていくようなものだと言われています。しかし、この共同体感覚の「共同体」という言葉だけでも通常で想像するような既存の捉え方ではなく、過去から未来、そして宇宙全てを含んだ、文字通りの「すべて」が共同体なのだという壮大なスケールの捉え方です。

アドラー自身も「共同体」について「到達できない理想」だと考えていたほどですから、なかなか簡略に説明できないものかもしれません。あくまで主観的な私の捉え方を少し書いていきます。

人は人と交わり、認め合う事で幸せを感じる生き物。しかしそれは一人でいる時に感じる事ができないかと言うと、そうでもありません。

例えば、もしあなたが一人暮らしで、仕事を終えて帰ってきた。「誰も食事を作ってくれないし、一人で作って一人で食べるか?」

そして「まぁ今日はパスタでも食べようか」と冷蔵庫を開く。この冷蔵庫が無ければ食べ物を保管しておくことも出来ない(感謝)。卵、ニンニク、ベーコン、チーズ、パスタ・・・「これらでカルボナーラでも作るか?」
この材料全てが、誰かが「材料」にまでしてくれました(感謝)。

鳥さん、豚さん、牛さんの協力も勿論必要(感謝)。鍋に水を入れ、調理器にかける。まな板、包丁を使う。電気や水道、ガスも使う。あなたのカルボナーラが出来るまでにどれほどの人間や生き物、自然の恵みが必要か?

こう考えると、全てのものは時間も空間も越えて、あらゆる者達がそれぞれの役割をこなしてくれた「おかげさま」で、あなたはカルボナーラを作る事も、食べる事もできます。「感謝」ってことになります。

日本には素晴らしい言葉があります。そう、「御蔭さま(おかげさま)」です。私はこの感覚に近いかもな?って思ってしまいます。

あくまで主観なんで、そこんとこヨロシクです(笑)

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幸せになる?幸せを感じる?

高収入、多くの資産や多くの貯金、高い学歴、高い知能指数、綺麗な容姿、権力や名声、人気など・・・

しかし、こういった誰もが認めちゃうものを持っていることと「幸せ」になることは別問題です。
ある意味、「幸せになる」という「言葉自体」が幻想と言うか、「思い込もうとしているもの」ではないかとも思います。

しかし、「幸せを人より多く感じる」、これは誰でもできます。結果、他者から見れば「あの人っていつも幸せそうだね」と見られるかもしれませんが、ただそれだけのような(笑)。

単純なものには、美味しいものを食べれば幸せを感じたり、好きな音楽やドラマ、映画、本、コンサートなどで幸せを感じたり、好きな異性や友達といる時には幸せを感じたりして、セロトニンやドーパミン、時にはオキシトシンやエンドルフィンという幸せや安心、快感を感じるホルモンが出て幸せを感じられるでしょう。

でもこれらも単発ですよね。それに触れていなければ出ない(幸せを感じない)なんて事にもなります。
では、これをもう少し長続きさせるにはどうすればいいか?これも簡単そうです。

脳が「ある目的」に向かっていく場合、その目的を果たさせる為には報酬が必要になります。
「目的を達成できることに期待を感じて」行動すればドーパミンが分泌されます。たったこれだけ。

それなら先程言った単発で終わってしまうようなものでも、目的を持って少しだけ計的を立てて行動すれば長続きするのでは?なんて思ってしまいます。

例えば好きな異性や好きな友達といる時には幸せを感じる人なら、行き当たりばったりで行くところを決めるんじゃなくて、今度はあそこに行こう、ここで食事しよう、こんな景色を見に行こう、こんな話をしよう、なんて情報を集めたり妄想したりする。
まだ「会う」という目的は達成していないから、ドーパミンなんかは出やすいはず。幸せやワクワクを感じられます。
美味しいものを食べてる時が幸せな人なら、一人で計画も立てれるし妄想を描く時だって一緒に行く人を気遣い「あの人はこれ嫌いだよな?」なんて思わなくていい分、なんだって妄想を描けます。

何かしら目標や目的、何でもよいがこれらをもって行動をしている時のほうがワクワクしたり幸せだという事になります。

要するに、「ワクワク」や「幸せ」を感じれる仕組みを自分自身でつくってやる。これだけです。ただし一つだけ注意点があります。それは結果にこだわらない事です。こだわると全てが反転しちゃいます。
例えば上の例なら、あれだけ色々考えて計画したのに友達とささいな事でケンカしてしまい「行くのは止めておけば良かった」とか、美味しい美味しいって評判だから行ったのに「たいして美味しくなかった」「近くのお店で充分だったよ」などなど(笑)

でも、よく考えたらそれまでは幸せな時間を過ごせたんだから得したんですよ(笑)
結果に目が向き過ぎちゃうと幸せを感じていた過去の事さえ反転させて不幸せにしてしまったりします。そんなのもったいないですよね?

この世の中は常に思いどうりにならないものと思いどうりになるものがあるんじゃないかなと思います。自分がコントロール可能なものと他者が関与してコントロールできなくなってしまうもの。コントロール可能なものに幸せを感じれれば幸せも長続きしそうですね?いかがでしょうか?

 

 

 

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悪とサイコパス2

更にサイコパスの人について興味深いお話があります。
ジェームス・ファロ氏はサイコパスの殺人犯の脳を研究してる神経学者です。ある日、ファロ氏は大量の脳をスキャンした画像をチェックしていました。すると大量の画像の中に明らかに奇妙な脳を示す画像が交じっていることに気づきます。彼は画像に映った脳の持ち主がサイコパスだと確信します。
しかしその脳の持ち主は、なんと彼自身でした。
ファロ氏は「私はもちろん人を殺したこともレイプした事もないのに」と語っています。

そこで彼は、母親に親族に犯罪者はいたのかを尋ねてみました。母はその事については今まで秘密にしていましたが、さすがにこの時には息子に打ち明けました。ファロ氏が母親から聞いたのは、父方の家系には少なくとも8人の殺人者がいて、そのいずれもが近親者を殺害した疑いがあるという事です。

その後、彼は周りの人達に自分に関してのイメージを聞き回り、自分自身の調査をしていきます。

やがて彼が導き出した結論は、自分は共感性がない面があり、確かにサイコパスであるという事でした。しかしサイコパスだとしても反社会的な特性はなく、怒りもコントロールすることができるので、サイコパスと言っても反社会性の特性を持つ人ばかりとは限らない、社会性のあるサイコパスもいるというものでした。

実際、社会性のあるサイコパスの人には成功者も多くいる事は今日では良く知られているお話です。
企業の社長(CEO)や弁護士、マスコミ関係の方、外科医などにも多いと言われています。サイコパスならではの「人の感情に流されない、冷静で計画的であると同時に、リスクをとり決断を下せる」などの特性を社会で活かし、活躍されている方も多くみえるようです。更に、人を思い通りに操縦しようとする、ウソに長けている、会話が上手い、人の気持ちを引きつけるのが上手い、恐れを知らず自信家、などの特徴もあるので、カリスマ性がある人も多いのでしょう。故に引き付けられてしまう人が多いのも事実でしょうね。

サイコパス=「悪」のイメージは、映画やドラマの連続殺人犯や快楽殺人犯のシリアルキラーの話と混同してしまうからでしょうね。確かに、成功者にサイコパスの方が多いのも事実ですが、同時に犯罪者に多くいるのも事実です。しかし犯罪とは無関係に通常の生活を営んでいるサイコパスやソシオパスの人も多くいるでしょう(犯罪に関与せず、頑張って生きて欲しいですね)。
とは言いつつも、私自身は利用されたり、餌食になりたくないので気をつけますが。(笑)

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悪とサイコパス1

以前、善悪について書きました。今回は少し視点を変えて、サイコパスについて書いていこうと思います。

「悪」と言えば、最近ではサイコパスなどを思い浮かべる方もいるのではないでしょうか?
人口の約1パーセントの割合でいるというサイコパスですが、反社会性パーソナリティ障害に分類されます。
反社会性パーソナリティ障害は、
1.法律を平気で破り、軽視する
2.他者を騙し、平気で嘘をつく
3.衝動的で計画性がない
4.安全性を考えずに行動する
5.攻撃的で、他者を傷つけたりいじめたりしてもそれを正当化する
6.良心や罪悪感がない
などの特徴を持つ障害を言います。

反社会性パーソナリティ障害にはサイコパスの他、ソシオパスと言われる人達もいます。特徴は様々ですが、サイコパスが通常の人と比べて脳の構造や機能が違う為に起こる先天的なものならば、ソシオパスは育った環境が劣悪な環境だったり、虐待やトラウマになってしまうような何らかの出来事が原因の、後天的な要因でなってしまうと言われています。

ソシオパスは人口の約4パーセント程いると言われ、サイコパスの約4倍もいます。サイコパスと違う特徴は、衝動を抑えることが難しいという事です。その為、怒りっぽいと言うより「ぶち切れる」ような言動や行動をとってしまったりします。それ故、一つの仕事や一人の人と長く付き合う事が難しくなり、職や人間関係も常に変わりやすい傾向があります。
ソシオパスもサイコパスも「他人と共感が出来ない、社会のルールを守らない、他者に危害を加えても良心が痛むことや罪悪感がない」という類似点も多くあります。しかしソシオパスの人は、犯罪を犯す際は衝動的で無計画になりやすいので、当然、検挙される確率も高くなります。
その点、サイコパスの方が犯罪を犯す場合は冷静で計画性もあり、合理性がある為、ソシオパスよりも検挙されにくく連続殺人などを起こしやすくなってしまいます。衝動的で攻撃的なソシオパスの人ですが、冷静で計画性があるサイコパスの人の方が恐い存在かもしれません。

このサイコパスの人ですが・・・
「悪とサイコパス2」につづく・・・

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私って本当にいい人?2

次は非人間化を簡単に説明します。非人間化は「そんなことするなんて、ホント最低だよ。虫けら以下だよ」なんて、ドラマや映画、小説やアニメでもよく耳にする言葉です。

この後、アニメやドラマなんかで続くセリフは「あんな奴は生きる価値はない。叩き殺してやる」なんてのもよくあります。

人だと思うと出来ないような事も、「虫けら」=「価値のないもの」なら殺しても構わないという心理が働く事ですね。これは「虫けら」というラベルを貼ることで、人に対しては決して出来ないような残虐な行為も出来てしまうということです。

アドルフ・ヒトラーなんかがよく使ったものでもあります。「劣等人種(人間以下)」「獣」「虫けら」「病気」になぞらえるなど、非人間化により、人に対して決して出来ないような行為もさせてしまいました。

ヒトラーだけでなく、誰もが「虫けら」「ネズミ」「ゴキブリ」「ヘビ」「ゴミ」「クズ」などとレッテルを貼ることがあります。しかし、レッテルを貼れば無意識に集団から排除しようとしたり、行き過ぎる行為に人を走らせる危険性もあることを常に頭に入れておかなければいけないと思います。

では、誰にでも解りやすいように、この二つの心理が働くような場面を考えてみましょう。

例えば〇吉君はグループ〇に属している。

×男君は×グループに属している。

〇吉君は×男君に嫌がらせをされた。

〇グループはメンバー全員結束が堅い。仲間思いでもある。

〇グル―プのメンバーは×男君をこらしめようとする。

×グループもまたメンバー全員結束が堅い。仲間思いでもある。

当然×男君を〇グループから守ろうとする。

この時点で、〇グル―プのメンバーの敵は×男君だけでなく、×グループメンバー全員。

〇グル―プには〇吉君が×男君に嫌がらせをされた事実があり、バックには「正義がある」。

敵対するうちに、×グループのメンバー全員は「ひどい奴ら」から「人間じゃない、虫けら以下」となる。

×グループの×男君が、〇グループの○吉君に、嫌がらせをしたのにも関わらず、本来はいじめられてもいない〇グル―プの〇介君が、いじめてもいない×グループの×蔵君に、「行き過ぎた、残虐な行為をしてしまった」。

こんな事もあるかもしれません。よくある感じのストーリーですが、このグループのメンバーの一人一人の性格とか人柄といった、個人の「悪」とは別な事。

誰もが「悪」になり得る可能性が、没個性化と非人間化だけでも説明がつくと思いませんか?
この没個性化と非人間化の心理が働くだけでも「何であんなひどい事できるんだ」なんてことが起きるのではないかと思います。

誰しも、このようなものが働けば、「非道」とも言える人になってしまう危険性もあるのではないか?というお話です。

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私って本当にいい人?

善悪について前回書いたので、別な視点で善悪を考えてみようと思います。人の善とか悪って何なのかを。

実験自体の真偽は別として、ミルグラムの実験やスタンフォード監獄実験など、多くの実験で、人は権威や権力で「悪」「冷酷」「無慈悲」になり得ることはよく知られています。
しかし、これらの実験をするような特殊な場所や状況でなくとも、日常にある「人の集まるところ」では誰もが「悪」になり得る危険性がある事を少し書いていこうと思います。

ここでは「没個性化」と「非人間化」という概念を用いて簡単に説明していきますね。
まず、没個性化とは、集団の中に自分を紛れ込ませることで、自分を個人として捉えられなくなり、一人では決して行わないような行動を、集団でいるときにはとれてしまうことを言います。

つい最近でも、海外で起きたデモに参加する人達の行き過ぎた行為もありました。建物のガラスを割ったり、壊したり、焼いたり、略奪したりするような過激な行動をする人もいました。これらの行き過ぎた行動は「集団の一体感がある」「自分は特定されない」「生理的に興奮している」などで起こることが解っています。

日本でも昔から若者達が集団でいる時に、通常では考えられない反社会的な行為などに走ってしまう事がよくありますよね。

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コップの中の善と悪

仏教に「善悪不二」という言葉があります。
私達は「何をもって善で、何をもって悪とするのでしょうか?」
ついつい私たちは色々な場面で「それは善い事だ」「それは悪い事だ」と言いきってしまいます。もしくは思い込んでいます。

善も悪も常に表裏一体の関係であるかもしれないのに・・・

仏教学者で東京大学名誉教授の平川彰教授の著書に書かれていた言葉に「コップの中に水と泥を入れてかきまぜる。しばらくすると澄んだ水と泥に区分される。澄んだ水を善とするなら、泥は悪である。しかし、これをかきまぜると、すぐに濁り水となる。このように人間の心とは、実に不安定なものであり、善悪入りまじったものだ。」というのがありました。

私などの凡人がこれを解釈するなら「水も泥も混ざってしまえばそれは泥水」。泥水の状態では、どこから泥でどこから水なんて言えやしないにもかかわらず、私達は「善悪混ざった泥水の状態」でも「善だ」「悪だ」と言いきってしまうと解釈しちゃいます。

よく私など愚か者はこの泥水を自分の都合で「これは泥だ」いや「これは濁ってても水だ」と自分の都合でよく言ってしまい、後で反省します。(笑)

物事に動揺せず、心静かに放っておけば、冷静な状態なら自分にとっての善や自分とっての悪が、水と泥が分かれるように見えてくるかもしれません。しかしこれさえも自分にとっての善悪です。

しかし泥と水が分かれていても、コップには泥も水も入っています。
「これは水だ」と言っても下にはしっかり泥があり、「これは泥だ」と言っても上にはしっかり水が乗ってます。私などの未熟者は常にそれを心に留めておいても、ついつい「自分が正しい」なんて思うことがあります。「その反対にある間違い」を忘れてしまいます。

それでも反省を繰り返していると、不思議に考え方が自由になってきてるように感じます。気のせいかもしれませんが(笑)

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何時までも若く美しくそれなりに

どんなに頑張っても人はそれなりに歳をとるものです。

私も「歳を重ねるのも魅力の一つと思うことも必要だな」と、少しだけ思えるようになりました。(笑)

そうは言っても、正直まだまだ若くいたいと思います。「カッコよく」や「美しく」は、他者がどう思うかより「自分で思えればいいんじゃない」と思います。

まずは自分で思えないことには「そう思ってくれる人もいないじゃない?」とも思います。実際、人の美的感覚など人それぞれでしょう。美しいと思う人もいれば、「そうかなー」って思う人もいる。

自分の心の中で以前より「綺麗になった」、以前より「カッコよくなった」と思えることが、若さにも美しさにもつながるんじゃないかな?と思います。

精神的な事も含めて、「前よりも若い」「前よりも綺麗、カッコいい」と思うことを探して褒めてやる。それだけで自信が持てて、人からも「若く美しく」見られるかもしれません。それなりに(笑)

 

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悲観主義しかできない肯定的思考

最近はこの楽観主義、いわゆる「前向きに考えれば上手くいく」とか「楽観的に考えたほうが上手くいく」という考えが、至るところで見受けられます。

確かに楽観的で前向きに考えれる人は、迷いやためらいがない為、目標を達成するために自分のエネルギーや時間を集中して目標に費やす事ができるので実現もしやすいでしょう。

しかし、脳の性質上、日本人の脳(特に女性)は、やはりどうしても元々「ネガティブになりやすい人」も多くなるのも事実でしょう。

元々がそのような脳の性質をもっている人が、無理やり「楽観的にしなければいけない」「前向きに考えないといけない」と言われても、「そんなに簡単にできないよ」「反ってストレスになってしまった」、そんな人も多いのにはうなずけます。

もちろん、考えを変えれた人は素晴らしい人で、出来ればそれはそれで良いことだと思います。しかし、何事も無理は続きません。あらゆるものには必ず「良い面」と「悪い面」があります。

生きていればいつ何時、自分が想像していた事とは違う出来事が起きるかは解らないものです。
どんな凄い人が「自分は出来る」と思っていても、そうはいかない場合も必ず来るものです。

予期せぬ出来事は神様じゃないので誰でも起こってしまうものです。
もし本当に楽観的な考えや前向きな事しか考えれないとしたら、出来なかった時の事は当然考えていないはずです。そんな時に困るのは「悲観主義」の方より「楽観主義」の方の方ではないでしょうか?

これは、「楽観主義」が癖になっている方は気をつけておかないといけないことだと思います。
その点、悲観主義の方などは「もしダメだったら」が常に頭にあるので、準備もぬかりなかったり、甘い計算もしないでしょう。ダメだった時も想定内ですからね。そもそもチャレンジすらしないかも(笑)

ここで言いたいのは、どうしても悲観的な考えが浮かんできてしまう人なら、無理して楽観主義にならなくてもいいんじゃないかな?ということです。

それより先程言った「自分の悲観主義からくる良い面を見つけ出す事」から始めたほうがいいのではないのかという事です。悲観主義から来る肯定的思考法ですね(笑)