カテゴリー
その他

ChatGPTさんにまた書いてもらいました。(笑)

これで終わるのも何ですから、ChatGPT(AI)さんにまた書いてもらいました。

「人が幸せになるには?」って事をAIがどのように考えているのか興味が湧きましたので(笑)

そのまま手直しせずに書きます。

”人が幸せになるには、さまざまな要因があります。一般的に、心理学者は幸福感には、遺伝的な要因、社会的・文化的な環境、そして個人の行動や思考に関する要因があると考えています。

遺伝的な要因については、人が生まれつき持っている性格や感情傾向が、幸福感に影響することが示唆されています。また、社会的・文化的な環境においては、経済的な豊かさや安定、社会的関係や家族の存在などが、幸福感に関連していることが分かっています。

一方で、個人の行動や思考によっても幸福感を高めることができます。例えば、肯定的な思考を持つことや感謝の気持ちを持つこと、積極的な行動をとることが幸福感につながるとされています。また、ストレスや不安を抱える場合には、自己効力感を高めるための手段を見つけることや、運動や瞑想などのリラックス方法を取り入れることで、幸福感を向上させることができます。

さらに、社会的関係やコミュニティに参加することも、幸福感につながります。家族や友人との良好な関係を築くことで、支え合いや励ましを受けられることが幸福感を高めます。また、仕事や趣味などの活動を通じて、共通の目的を持った仲間と交流することで、生きがいや意義を見出すことができます。

以上のように、遺伝的・社会的・個人的な要因が幸福感に影響することが分かっています。人が幸せになるためには、これらの要因をバランスよく調整し、自分自身が持つ幸せを感じるための方法を見つけることが重要です。”

 

カテゴリー
その他

すごい怖いです!

“狐は兎を森の中へと導ききましたが、途中で狐は「ここにいい草がありますよ」と言いました。

狐は兎に話しかけている間に、高い木に飛び上がりました。

兎は狐が木にいることに気づきましたが、狐は下から「下にいって草を探してきてください」と言いました。

兎は木に上がり、狐は下から笑いました。

「兎さん、私はあなたを騙しました。あなたは私が首を横に振っていたのを見ましたか?」と狐は言いました。

兎は狐に騙されたことに気づき、恥ずかしさと怒りで帰りました。

この物語は、人々が話し言葉に騙されないことを教えてくれます。また、話し言葉に騙されないことは自分自身を守ることにつながります。

心理学的に見ると、話し言葉に騙されないことは、自己評価と自信を高めることにつながります。自己評価は、自分自身がどのように自分自身を評価しているかを示します。自信は、自分自身がどのように自分自身を信頼しているかを示します。

話し言葉に騙されると、自分自身の信頼が損なわれます。また、他の人からの騙されたという印象を持たれることになります。このような状況では、自分自身の価値観や自信が低下することがあります。

一方、話し言葉に騙されずに、自分自身の信頼を保つことができれば、自己評価や自信が高まります。自分自身が信頼できるという感覚が強まることで、他の人からも信頼されるようになります。

つまり、話し言葉に騙されないことは、自己評価や自信を高めることにつながり、他の人からも信頼されるようになることが期待されます。”

多少解りにくいところや、「それで?」って感じの文章でもありますが(笑)
「だから、この文章で何が怖いの?」って感じですよね。

実は上記の文章、全てAIに書いてもらったんですね。ここまで来たのかと、私は恐くなりました。(笑)

 

 

カテゴリー
その他

神道11曲霊にならないように使う四魂の力(奇魂)

最後は奇魂ですね。
この魂の機能は観察力や分析力、理解力、「悟る」などの「知」から構成されるものと言われています。

 

この魂の働きが強い人は「自分にしかできない」と思う事が達成できることに大きな喜びを感じるようにもなります。故に真理を探究したりすることを好む傾向も強くなります。

また、知識を付けて「何らかの事」を極めたいと思っていますので、知識欲も旺盛になり、「よく知ろう、よく学ぼう」とします。

しかし、理屈で考えて動く事が多いので、行動力を司る荒魂の働きが弱ければ「口だけで実行に移せない」「いつも計画だけで終わってしまう」ことになってしまいます。

この奇魂の働きが「強いかな?」と感じる人は、経験やそこから生まれる知恵などを上手く取り入れないといけないのでは?と思います。

更にもっと大切な事は、他者から「常に学ぶ」姿勢ですよね。この他者は、なにも自分が深めたいこと、極めたい事の先生や専門家だけではないんです。「自分がどうでもいいと思ってたりする人」も含めて学ぶ癖だと思います。

特に奇魂の働きが性格に強く現れると、知識を重んじる傾向がある為に、「知識」を自分よりも持っている方には「素直に学ぶ姿勢」があると思いますが、「無いと思えば」軽んじる傾向も出てきてしまうと思います。

しかし自分以外の全ての人は、それぞれがその人しかできない「経験」をしているのですから、当然「学べること」があると思います。

奇魂の働きは「智」ですね。しかしこの魂に「覚る」という反省がない時は、曲霊となって「狂魂」に変ずるとあります。

「覚る」とは理解であり、またそれに気づくことです。
私も若い頃には師を求め、色々な方とお会いしました。その時、「私が望むものを持つ」と言われる方達にお会いしたとき、失礼にも「結局、誰も持ってないじゃん、詐欺だよ」なんて本気で思ってた頃がありました。

自分自身を解りもしない若造が、他人様の批判はできました。(もちろん批判は心の中でですが(笑))
上に書いたことと同じですよね?

その人の能力とか才能とかに目を奪われて、他の学ぶべきことが見えてなかったんですよね?

後に理解でき、大いに反省したので「狂魂」には変化してないとは思いますが、どうでしょうかね?(笑)

カテゴリー
その他

神道10曲霊にならないように使う四魂の力(幸魂)

幸魂の性質は愛を持つことで、幸福をもたらすものです。

例えば親は子を愛します。愛しているが故、その子を育てます。成長する手助けを愛をもって行います。

その時、親は子供と共に親として人として成長し、また幸も感じることができるでしょう。これは親だけではありませんね。

愛という性質においては恋愛も結婚も同じでしょう。異なる環境で異なる育ち方をした、異なる性を持つ人と行動を共にすれば、ましてや生活ともなれば、嫌でも色々な違いに気づかされます。

この違いを克服していくにはやはり「愛」が必要であり、「愛」があるが故に、異なる考えや異なる想い、異なる選択があっても妥協点を見出し、お互いが歩み寄りながら共に成長していくのでは、と思います。
故に幸魂の性質の愛を持つことで、成長し幸福をもたらすものになるのでしょう。

幸魂に「畏る」という自省力がない場合は、曲霊となって「逆魂」と変ずるとあります。

これは「愛するが故に」その行い自体が逆に働く事もある、これも「逆魂」の一つの性質だと思います。

例えば、愛するあまり子どもを溺愛したり、自立させなければならない時にも過保護になりすぎて、その子自体の成長を止めてしまったりすれば、親がいなければ何もできないまま身体だけが成長してしまいます。
結果、子供は自立できないままで一人で生きていけなければ、幸せとは言えないでしょう。(もちろん、ご家庭により色々な事情があり、一概には言えません)

また「自分のことより相手の為に尽くす」、このように書けば「愛だな」などと思います。

しかし、「自分のことを全く顧みることなく、相手のためだけに必死になってただ闇雲に尽くしている人」、更に「そういった人に依存しきっている相手」、このようなカップルと聞けば「えっ、共依存?」って思いますよね?

幸魂には「育」という働きがあります。人を育てる働きの事です。知恵を引き継ぎ、受け渡し、その人の個性を伸ばしていく働きです。同時に、知性を用いてそのプロセスを明らかにして「益」の働きを助けるといいます。

幸魂には「益」という働きがあります。これは人類愛的な愛の事を指します。
見返りを期待しない愛です。愛する人の為に死をもいとわない強い愛ですね。
しかしこの場合、本当に「育」や「益」の働きが正常に働いているのでしょうか?

親もカップルも、やはり「思い違いと行き過ぎ」が原因で正常に働かずに「逆魂」になってしまう恐れがあるかもしれません。

何故なら、どちらも「自分が世話をしてあげたい」という自分の都合だけで相手の立場を考えずに、ただその欲求に従っているものもあるからです。

 

絶対的な存在価値というものがあったとします。あるとすれば、これはただ無条件に「その人は唯一無二の存在で、ただ生きていてくれればいい、ただ存在していてくれればいい」、そのように思う事ではないでしょうか?

幼いころ母親に無条件で抱きしめられた子供は「母親が子供に思うこの気持ち」を何となくでも汲み取り、「ありのまま、そのままでもただ生きていればいいんだ」という「愛と安心感」を、はっきりとは意識できずとも、どこか心の奥では解っているものだと思います。

しかし、あまりこういった経験がないと「自分の存在価値は他者に何かの必要性がなければならない、そうでなければ自分の存在を認めてくれないのではないのか?」と、どこかで思ってしまいます。その為に行き過ぎた行動をしてしまうのではないでしょうか?

 

これが過保護的な自分勝手な愛に陥ってしまうのではないかとも思います。
要するに、この方達が自分の心のバランスをとるためにする行動が「行き過ぎた自分勝手な溺愛」だったりするのではないかとも思います。

 

畏(おそ)れることで相手に敬意を払う、こういった姿勢が「曲霊」となることを防ぎ、幸魂を助ける働きとなると言われます。

畏(おそ)れる事は恐れる事とは違います。
恐れる事は、とても自分ではかなわないものだと思い、身動きがとれない状態です。

畏(おそ)れるは、とても自分ではかなわない力のあるものだと思い、その前で礼儀を失わないように控えめにすることですね。畏(おそ)れる事とはこういう意味があります。

「天や神を畏れなさい、そして道徳を重んじ退廃せず『逆魂』にならないよう励みなさい」と、古神道ではよく言われます。正しいと思います。

しかし私ならこうも考えます。どれだけの親が子供に対して畏(おそ)れる事を見つけられるのでしょうか?
「私がいないとこの人は生きていけない」と思う相手に、畏(おそ)れる事を見つけられるのでしょうか?とも思ってしまいます(笑)

「自分がしてあげていると思う相手」ほど、例え小さな事でも畏(おそ)れる事を見つけられれば、その事においては相手を重んじ、敬意をもち、控えめにする。すると相手も自然に自信が湧き、「自立」していけるのではないのかな?と思いますが、いかがでしょうか?

もちろん偉そうに言っても私は出来てませんよ。あくまで幸魂の解釈です。(笑)

カテゴリー
その他

神道9-2曲霊にならないように使う四魂の力(和魂)

例えば、あるグループのリーダー格のA子さんが何らかの理由でB子さんに「何、あいつ」って思い、その時からA子さんはB子さんを嫌ってしまいます。

A子さんはB子さんに嫌な気持ちにさせられたので、C子さんD子さんに「最近B子って、調子にのってない?」みたいな事を話します。

C子さんは特にA子さんと仲が良く、どこか憧れの気持ちもあります。

別段、C子さんはB子さんを「調子にのってる」なんて思ってなくても、憧れの気持ちもある仲の良いA子さんが言うので、「そうそう、そういえばさ」なんて言いながら、調子にのってるであろうB子さんの記憶を引っ張り出して話します。

D子さんは「そうかな?」と思ってます。


A子さんが言います。「ちょっとの間、シカトしない?」

C子さん「そうよね」

D子さん 「えーっ、嫌だよ」と思います。


しかし、A子さんもC子さんももう既に固い決意があります、「B子を無視する」という。

A子さんもC子さんも、D子さんに無視するようにあらゆる手段を持って説得します。

よく聞く話で、またきっとよくある話なんでしょう。

その後、またB子さんがグループで皆と仲良くできれば良いんですが、それが元で学校や会社に来れなくなったり、「心の病」になったり、最悪自殺したりしたら、D子さんなら自分達が「悪い事」をしたと思いませんか?

もしかしたら心がその事実に耐えられずに、「もともと悪いのはB子よ」なんて思ってしまうかもしれませんね。

こう捉えると「親」は「悪」と変じ、悪魂となる事も、いたるところでありそうですよね?

さて、悔(く)いること。悔(くや)むこと。この「悔」で和魂(親)を補佐し、曲霊にせず「悪魂」を防ぎます。

もし、上に書いたように、D子さんが「自分達は『悪い事』をした」と本気で思えば、私は「悔」で和魂(親)を補佐したと思います。それがたとえ、A子さんであってもC子さんであってもです。本気で「悪い事をした」と思えば、その時点で「悪魂」とはならないはずです。

また、心がその事実に耐えられずに「もともと悪いのはB子よ」と言い聞かせる自分がいても、それは心のバランスをとる為です。その心と共に「悪い事」をしたという気持ちと面と向かえばよいのです。

すると「涙が出て」くるはずです。この時、解放され、「悔」を使えたと思います。

後悔することは時として大切な事ではないでしょうか。

後悔も失敗もしたことがないなんて人が「人の痛み」が解るのでしょうか?

人と交わることは「悔」がついて回るものだと知り、それでも人と交わる事を諦めなければ、「「悔」で和(親)を補佐できるようになるのではないか」と思います。

個人的には、人と関わろうが関わるまいが、どちらでもいいかとも思いますが(笑)

カテゴリー
その他

神道9-1曲霊にならないように使う四魂の力(和魂)

和魂の働きの「親」は「悪」と変ずる。
「仲間と共に悪事を企てる悪魂」

和魂の働きの「親」は親しみを持って人との交流をなす為に必要な力です。
人と親しみを持ち交流することは社会生活を営む人としては大切なことでしょう。

人の気持ちが傷つけられることの多くは、人の言葉だったり人の態度だったり、人と関わりを持ち交わることで生じるものでしょう。

逆に、人と関わりを持ち交わることで、何かになりたいと憧れたり、何かの目的を遂行したいと思ったりしてヤル気が出たりもします。

または人の温かい言葉、人の優しい気持ち、人の思いやりのある態度で癒されたり、立ち直ったり、救われたりするのも、人との交わりから生まれるものでしょう。

傷ついても人と交わることを選ぶのか、傷つくのを恐れて交わりを避けるのか、どちらが良いかなんて私などには解りません。きっとその人なりに、その時々に色々な場面に応じてどちらも必要なことだと思います。

ここで問題とするのは和魂の働きの「親」、親しみを持って人との交流をなす力。
何故この事で「親」は「悪」と変ずるのでしょうか?

私なりに考えてみました。

人と親しく交われば、当然自分の意見と合わないことが必ず出てきます。
その為には他者に合わせる事も必要になってきます。

その合わせる内容の中でも、自分で「悪い事」と内心では思っていても、その交わった人達が「みんなでしよう」という事になれば、なかなか「私はしない」と断れない時もあると思います。

特に日本人はこの傾向が強いのではないかな?と思います。
「朱に交われば赤くなる」と言うものです。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」なんてのも、「たけしさん」が昔、言ってましたね。

こういった事が、和魂の働きが強い人は気をつけなければならないことです。

例えば・・・・

カテゴリー
その他

神道8 曲霊にならないように使う四魂の力(荒魂)

荒魂

荒魂の働きの「勇」は「争」と変ずる。「争いばかりを生む争魂」となる。

例えば、荒魂の働きの「物事を成し遂げる為にどんどん前に進んでいく力」(勇)が行き過ぎれば、「どんな事をしてでも成し遂げよう」という思いや、「何が何でも人より抜きん出よう」とする思いなどが生まれてきます。

思いが強いことは魂の力を強めることに必要だと思います。

しかし、その事に固執し過ぎてしまったり、極端に行き過ぎればどうでしょう?

「まずは自分の目的を遂行しなければ」となり、「他者のことなど構ってられない」などともなり、更には「多少の犠牲は仕方ない」とエスカレートしていくでしょう。

前に進むためには自分の主張もはっきり言わなければならない時もあります。
しかしそれが「行き過ぎる自己主張」になったり、「出しゃばりすぎること」になったり、「やりすぎる事」になったりするかもしれません。

また、人に「気付いてもらうこと」、それが「目立ちすぎて嫌味な雰囲気をかもしだしたり」、「他者を蹴落とす」などの行いも生まれてくるかもしれません。

結果、当然、他者との争いを生み出してしまいます。こういった事が「勇」は「争」と変ずる、という事かな?と思います。
要するに、荒魂は「耻る」という自省心がない時に「争」と変ずるのです。

しかし、言い換えれば、常に己自身を省みて、自分の行いなどを反省すれば、曲霊にならないという事になります。
その反省の一つが「耻る」ことだと私は思います。

例えば「〇〇さんを差し置いて出しゃばりすぎたから恥ずかしかったかな?」
「ちょっとムキになって言い過ぎて恥ずかしかったかな?」
「あれもこれも他の人の仕事まで取ってしまい、一人でやってるみたいに見えて恥ずかしかったかな?」などなど・・・・

「どうしてもやりたいこと」「どうしても欲しいもの」、こんな時は行き過ぎてしまう事が多いのではないでしょうか?

また戦後、欧米の文化や考え方、科学的アプローチや合理的で利己的な方法論などが、急速に日本の文化や人々の考えに入り込んできたように思えます。「思いこませたものが真実に見える、言いきったものが真実に聞こえる」
「言ったもん勝ち」「やったもん勝ち」「権威や脅威を感じさせ、デコレーションする」。

私も含め、そんな風潮があまり「恥」とは思えなくなってきているのかな?なんて怖さもどこかで感じていますが、どうでしょうか?

現実の問題、何かを成し遂げたり、欲しいものを手に入れたりするには頑張らなければいけないし、「どうしても・・・」とか「どんなことをしてでも・・・」と思わなければ「何事も成し遂げられないのでは?」とも思います。

しかし、自分に無理をさせ過ぎてイライラしたり、他者の事を無視し過ぎて争いが生まれることも多々あります。

頑張り過ぎてしまったりした時のブレーキも必要だという事を教えてくれます。

また、「頑張ってるな」と自分が思う時こそ、人に「頑張り過ぎじゃない?」と言われた時も、他者との「争い」の火種がくすぶっていて、それが「元も子もなくしてしまう」こともあると思っていなければいけない。

常に「押し進める荒魂の力」が発揮している時こそ「引く力」「待つ力」「戻る力」、そんな力を養っていくと同時に、「足るを知る」が必要ではないか?と、私なら考えます。

補足ですが、「足るを知る者は富む」と『老子』が言われましたが、日本では二宮尊徳翁の姿だったように感じます。

カテゴリー
その他

神道7

古神道には「一霊四魂」という考えがあります。
(しかし、この考えは平氏政権の成立1160年代以降くらい?だと思います)

出口王仁三郎さんが開いた大本などはこの考えを説き、詳しく説明されています。

出口王仁三郎さんは、この宇宙に存在する全てのものがこの「一霊四魂」で成り立っているとまで言っています。

参考文献
一霊四魂と和の精神 ~垣根を超えて大きな和の世界を創る古代の叡智 Kindle版
「霊界物語」出口王仁三郎(著)全81巻83冊 天声社
「一霊四魂と和の精神」)出口光著 サムライ出版
霊魂と肉体―一霊四魂説考察’北村 博則
一霊四魂 附・原素周期律表と霊子量表1973/1/1山蔭 基央

ここではあくまで難しくならないように、一般的な解釈と私なりの解釈で、出来る限り易しくかつ軽く説明してみます。

直霊

まず一霊四魂の一霊とは直霊(ナオヒ)の事です。
では、直霊とは何かと言えば「無意識に働いてしまうような自分の思いや行動を調整できるもう一人の自分」と言えるでしょう。

要するに、この直霊が四魂である荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)をコントロールしていると言えます。


四魂

四魂を簡単に説明すれば以下のようになります。

荒魂

荒魂の本体は「勇」です。勇のはたらきは進、果、奮、勉、克です。五行的には荒魂は火。

要するに、荒魂には「前に進める力」があります。
故に荒魂が発達すると勇気が湧き、物事を推し進める力がでて、更にあらゆる物事に対して決断力のある取り組み方が出来るようになる。
更に、困難に直面しても乗り越える力も出る。同時に耐え忍び、コツコツとやっていく力もある、と言われています。

和魂

和魂の本体は「親」です。親のはたらきは平、修、斉、治、交です。五行的には和魂は水。

要するに、和魂には「親しく他と交わる力」があります。
故に人や万物、更には神に親和する力、それを用いて全てのものと仲良くし、自分の行いを正しくする、身をととのえ、家庭をととのえる、国を治め、平和を実現することも和魂の力だとされています。

幸魂

幸魂の本体は「愛」です。愛のはたらきは益、造、生、化、育です。五行的には幸魂は木。

要するに、幸魂には「他を愛し、生み、育む力」があります。
故に「ものを造り、生みだし、成長させる」など、すべて愛の働きであるものを可能にさせる力が幸魂にはあるとされています。

奇魂

奇魂の本体は「智」です。智のはたらきは功、感、察、覚、悟です。五行的には奇魂は金。

要するに、奇魂には「観察し分析し、悟る力」があります。
奇魂が発達すれば感覚が優れ、観察力に長けます。よって多くの事を上手く行うことができるようになります。更に知性が発達していき、真の知恵が働いてくる為に、精神的な悟りにも到達できると言われます。

これら四魂を直霊が正常にコントロール出来ている時、四魂は良い働きをして物事も上手く運びます。

しかし、自分の良心に合わない事や、自分を省みる事なく魂の力が極端に偏ったりすれば、四魂が正常に働かなくなり、直霊は曲霊(まがひ)になってしまうと言われています。

カテゴリー
その他

神道6

篤胤さんのこういった思想は当時の民衆に受け入れられていき、その考えや思想がどんどん広まっていきます。

篤胤さんの「生きてる人は死んだ後の人々は見えないが、死んだ人達は自分たちを常に見守ってくれているんだ」という考えが民衆に受け入れられていたようです。

その後、篤胤さんは復古神道(古道学)の大成者と言われるようになります。要するに、本居宣長さんの時代のまだ研究段階としての国文学などの学問を、古神道というものへ宗教化していった方だと捉えることができます。

こうした江戸時代の復古神道の流れが幕末から明治にかけて活発になっていき、大本、神道天行居、出雲大社教、神理教、古神道仙法教などの宗教が生み出されていきます。

カテゴリー
その他

神道5

有名なところでは「天狗にさらわれた寅吉少年事件」があります。江戸後期、少年寅吉はお祭りで壷売りの壷を見てたいたら、その壷に呑み込まれたっていうお話です。
そして数年後、寅吉は浅草の観音堂の前に現れ、「今まで天狗の世界で暮らしていた」と語りました。

勿論、こんなことは周りの人達は誰も信じませんでした。そこで登場するのが不思議大好きの平田篤胤さんです。
そして彼とその仲間たちが「この話は凄い話では?」と思い、寅吉を自分達の家に数年間住まわせて生活を共にしました。その間、寅吉は天狗の世界の風習や修行の仕方、文化や日常に関してかなり詳しく話しました。

これを平田篤胤さんは「仙境異聞」という本にしました。この本は世に出ると、たちまち江戸後期の大ベストセラーとなったようです。しかし、「仙境異聞」は書かれた後、長らくは高弟でも見ることもできなかった門外不出の書物だったと言われています。

当然、ただの「嘘つきな少年」として片付ける説もあります。しかしこの当時の平田篤胤さんは最高の国学者であり、最高の頭脳の持ち主と言われていたのも事実です。更に、その仲間たちもかなり優秀な方達であったようです。そんな方達が嘘だとは思えないほどの何かが、この少年が語る異世界のお話にはあったのではないでしょうか?